Saturday 12 May 2012

タイタニック3D in Electric Cinema


4月15日にNotting Hill Gate(ノッティングヒルゲート)から歩いてPortbello Road(ポートベロウロード)の端にあるElectric Cinemaで「Titanic 3D」を観て来た。元々好きだったアンティークからの延長で17、8、9世紀の装飾やインテリア等にも懐古主義的な憧憬が膨らんでいた時にタイミングよく上映し始めたのだが、それでも旋毛が曲がっている僕の定番、王道への反逆体制が邪魔をして行くのを躊躇っていた。が、その体制をナポレオンの如く革命的に転覆させる事情があった。というのも、この日からちょうど100年前の1912年の4月15日にタイタニックは大西洋の海底に沈んでいるのだ。それに加えて、Electric Cinemaは沈没より一年前の1911年に建てられ、内装は改装をしてはいるにしろ、そのディテールからヴィクトリアンの微香を感じられる、「タイタニック」を鑑賞するにはうってつけの映画館だったのだ。
Electric Cinemaの館内は映画館特有の傾斜があまりなくフラットで広々としている。天井はアーチを描いていて、白を基調にした壁に深紅の模様が上品だ。席は最前列から最後列まで革張りのリクライニングチェアで統一、おまけに足のせ台まで完備されている。つまり足を惜しみなく伸ばして存分に寛いでくださいという仕様になっていて、それではと、ふかふかの椅子に沈む様にして座った。(予告も合わせて)4時間近く座ってもまだまだ身体の余裕を感じられるほどに快適。


映画そのものは思っていたよりラブストーリー色は希薄で、造船の責任者やキャプテン、船底で汗を流すボイラー部員の視座をもって巨大客船の沈没を追体験できるようになっていて、その切り替えが慌ただしいくもあったが、沈没するのと相まって脳内に丁度よい混乱を引き起こしてくれる。期待していた船内の贅を尽くした内装や一等船客の衣装は、コマーシャリズムさまさま、再現度が高く感嘆しきり。 印象に残っているのは、ロミオとジュリエットがお手本の、階級の格差や障害を乗り越えて結ばれるというテンプレ化した恋物語ではなく、タイタニック号が沈没していく間の人々の行動で、責任を感じ操舵室に残こった船のキャプテン、混乱の中で人々を落ち着かせようと最後の最後まで演奏をやめなかった音楽家達、己のダンディズムを貫き死を待ち構えた紳士、なんかはそれだけで別の話が成り立つ程のドラマ性を感じた。気になって調べてみると、この映画には実在した何人もの人物が登場しており、彼らの末期は生存者の証言を基に決定されているという。以下、興味深い乗客を抜粋した。


トーマス・アンドリューズ(造船家)
アイルランド出身で父親は枢密院のメンバーというエリートの家系に生まれ、弟は北アイルランドの首相にもなっている。ベルファスト王立アカデミーを卒業後、ハーランド・アンド・ウルフ社で働き始める。アンドリューズは、社内でも造船所の従業員の間でも、よく好かれていた。1907年から、オリンピック号とその姉妹船タイタニック号の設計監督に就任する。アンドリューズは会社を代表して、建設した船の処女航海に同行しており、タイタニック号もその例外ではなく、1912年4月14日に出発地ベルファストから乗船し、友人に「タイタニック号は人類が作り上げてたものとしては、ほぼ完璧に近い」と伝えている。4月14日の午後11:40分、タイタニック号は氷山に衝突した。アンドリューズは破損状態を確認すると、タイタニック号は沈没の運命にあることを確信する。沈没までに時間がないこと、救命ボートの数が乗客乗員の数に満たないことを把握していたアンドリューズは、避難が始まると嫌がる人々をせきたて、できるだけ詰めて救命ボートに乗るよう指示した。船の乗客係ジョン・スチュワートによれば、アンドリューズが最後に目撃されたとき、彼は一等船室喫煙室の暖炉の上の絵『プリマス港』をじっと見ていたという。タイタニック号はその帰途でプリマスに寄港することになっていた。



マーガレット・ブラウン
1867年、アメリカ、ミズーリ州で四人兄妹の長女として生まれる。家が貧しいこともあり、お金持ちと結婚したがっていたが、18歳で移り住んだコロラド州リードヴィルでジェイムズと出会い、結婚する。
「お金持ちと結婚したかったけれど、私はジム・ブラウンを愛しました。私は父を楽にさせてやりたかったし、疲れて年老いた父にしてやりたかったことをかなえてくれる男性が現れるまでは、ずっと独身でいようと決心していました。ジムは私たちと同じくらい貧乏だったし、チャンスに恵まれた人生を送っていたわけではありません。私はその頃、激しく葛藤していました。私はジムを愛していたけれど、彼は貧しかったのです。最終的に私は、富で自分を惹きつける男性とではなく、貧しくても愛する男性と過ごすほうが幸せだという考えに至りました。だから私はジム・ブラウンと結婚したのです。」とジェイムズについて語っている。
その後、ジェイムズが独学で励んでいた鉱山工学の技術が実を結び、一家は莫大な富を手に入れる。マーガレットは華やかな社交界にも順応し、芸術に没頭、フランス語、ドイツ語、ロシア語にも堪能になった。1909年にはアメリカ合衆国上院にも立候補している。だが23年の 結婚生活の後、別居同意に達し、別々の道を歩むことを決意する。2人が和解することはなかったが離婚はせず、生涯を通じてお互いを気遣った。マーガレットは一等船客としてタイタニック号に乗るが、1912年4月15日、氷山に衝突して沈没。混乱の中、他の乗客が救命ボートに乗り込むのを助けていたが、最終的に救命ボート6号に乗って船を離れることを承諾する。沈没後、救命ボートを指示し乗組員長の反対を押し切り、水中の生存者を探し出すために戻った。カルパチア号に救助、収監された祭も、女性乗客の間でリーダーシップを発揮した。タイタニック号生存者の名声を労働者と女性の権利、子どもの教育や歴史保存といった多岐に渡る問題の推進するのに役立てた。

エディス・C・エヴァンズ
1875年、ペンシルベニア州フィラデルフィアで裕福な家庭に生まれる。イングランドで行われた一族の葬儀に出席した帰り、1912年4月10日からシェルブール港からタイタニック号に乗船した。彼女には一等船室のA-29号を割り当てられた。独り身で旅をしていたエヴァンズには付き合いの男性がいなかったが、同じく一等船客で戦史研究かとして知られていたアーチボルト・グレーシー大佐は、同等の立場にあった他の四人の女性とエヴァンズに対して、船内で彼女たちへのエスコートを申し出ていた。事故発生後、グレーシーはエヴァンズともう一人の女性キャロライン・ブラウンを救命ボート付近まで送り届けた。2人は一度救命ボートに乗り損ね、もう一隻の救命ボートD号は、エヴァンズとブラウンの両方を乗せる余裕がなかった。エヴァンズは渋るブラウンに何度も「家でお子さんたちが待っているのだから、先にお行きなさい」と勧めた。救命ボートD号は、エヴァンズを船上に残したまま離船した。


ベンジャミン・グッゲンハイム
1865年、ユダヤ系ドイツ人の実業家、マイヤー・グッゲンハイムの家に10人兄妹の6番目の子として生まれた。タイタニック号には、一等船客として主ルブールから乗船。付添人のヴィクター・ギグリオ、運転手のルネ・ペルノ、愛人のフランス人歌手マダム・アウベルトと彼女のメイドを務めていたエマが彼に同行した。氷山衝突後、グッゲンハイムとギグリオは、マダム・アウペルトとエマを救命ボートに連れて行った。2人が渋々救命ボート9号に乗り込んだ後、グッゲンハイムはエマにドイツ語で「またすぐに逢えるさ、ちょうど修理中なのだから。明日にはタイタニック号はまた動くだろう」と言って2人も見送った。事の深刻さを悟っていたグッケンハイムは、1時20分頃には救命胴衣を脱ぎ、夜会服に正装してギグリオ及びその他2人の船客と一緒に一等船客休憩室に現れた。グッゲンハイムは、「最上の服装に着替えてきた。これで紳士に相応しく沈んでいく準備は整った」と発言したという。グッゲンハイムとギグリオが最後に目撃されたとき、デッキチェアに腰掛けた2人はブランデーグラスを傾け、葉巻をくゆらせていた。


エドワード・ジョン・スミス
1850年、イングランド中部のハンリーで陶芸家の父エドワードと母キャサリンとの間に生まれる。若い時期から海運の会社で働き、瞬く間に昇進を重ねていった。それにつれ、乗客や乗組員から穏やかで華麗だという評価を得るようになる。またイギリスの上流階級から、自分たちの乗る船の船長をスミスにするよう普段から要求があったことから、「大富豪たちの船長」として讃えられるようになった。スミスは葉巻とその煙を愛しており、葉巻の煙が作る輪を乱されたくなかったため、葉巻を吸っている間は書斎に誰も入れさせなかったという。世界で最も経験豊かな船長の一人として名声を築き、1912年タイタニック号の船長に任命される。新聞社には「会社がより大きく、より豪華な汽船を完成させ」たあかつきには引退をすることを伝えていた。氷山衝突の後、船内に浸水が進む中、操舵室にいるスミスを見たという証言がある。

Wednesday 18 April 2012

パリ 四日目&五日目 〜エロティシズム博物館、ルタンスの香水、王女ミュラ〜


四日目

午前中はエロティシズム博物館(The Museum of Eroticism)へ。古くは石器時代から現代まで、西洋から極東の日本までの快楽の陳列。カーリーヘアの男が狐の耳と牛の足がはえた男性器に股がっている魔除けの鈴、ヤン・シュバンクマイエルの映画「快楽共犯者」に出てきそうな自動自慰装置、寝ている女性を襲い悪魔の子供を産ませるというキリスト教の淫魔インクブス。


常設は地下と一階だけで二階から五階までは特設展示になっており、フランスポルノ映画、人形作家の写真、Jacques Brissotという作家の個展が見れた。エロティシズムのメッカだけあって日本だったら小さなギャラリーでしか扱えないような際物まで堂々と爽快に展示してある。お客さんも早い時間からけっこう来ていた。パリにいたっては元々エロスと生活の距離が近いのか、それとも芸術の文脈で扱うエロティシズムに対してそれ故に寛大なのか。どちらにしても日本のものよりは幾らかの晴朗さを持って扱われているような気がした。世紀末美術の画家エゴン・シーレは『芸術作品にはひとつとして卑猥なものはないのだ。それが卑猥になるのは、それを見る人間が卑猥な場合だけだ。』という。全くもって正論。近頃わいわいもめている児童ポルノ法が是認されるなら、澁澤龍彦がサド裁判で有罪になったの時と状況は変わっておらず、卑猥に対しての認識転換が半世紀近く滞っていることの証左になるのであって、ともすればこの国を憂うほかない。


歩いてギュスタブ・モロー美術館に行ったが、遅過ぎる&長過ぎる(二時間)のランチ休憩だったため今回は諦め、シテ島とセーヌ川を南に跨いだ所にある、古本屋が乱立しているという地域へ。幾つかの店を回って、アート系の写真集や画集で部屋の6面中4面が埋まっている店に狙いを搾って、一点集中。宝探しを開始しようとするが、なんせここは天上天下唯我独尊フランス、扱っている本のほぼ全てがフランス語で書かれているのであって、三日前に辛うじて「メルシー」と「ボンジュール」を言えるようになった外部者の僕に残された頼りは頼りない脳内データベースと写真しか無かったので、棚の端から一冊ずつ心血を注いで視覚で確認作業をすることになる。この日は結局、四時間居たが一面の棚の半分ほどしか見れなかった。

この日の最後に向かったのは、ルーブル美術館の北隣に位置するパレ・ロワイヤル。中世に立てられた歴史的な建物の中央にある庭園を囲んで骨董店やカフェ、高級ブティックが軒を連ねているが、その中に今回の旅行で必ず行こうと心に決めていた、セルジュ・ルタンスの香水店があるのだ。資生堂のイメージクリエーターとして名声を博したルタンスは突如ファッション業界から身を引き、数年の沈黙の後、「ブティックよりも洗練された香水店」をコンスプトに掲げ、ここパレ・ロワイヤルに世界でたった一つの小さな店舗をかまえる。重みのある扉を開くと店内はモーブ色の照明で艶やかに照らされ、四面の壁の上部には月や星、植物、昆虫のモチーフが散りばめられている。中心には側面が等間隔に並んだ弓矢の模様で支えられた螺旋階段がある。ルタンスが香水を創る際に子供の頃を記憶を辿ってイメージを膨らませるように、この店内も彼の幼年期の記憶の欠片で装飾されているのだろう。

ルタンスの美意識は香水一本いっぽんの名前まで抜け目無く及んでおり、『トルコの甘いお菓子』『一輪のユリ』『牝狼』『夜に』『樹のフェミニティ』等、エスプリに富んだ、文学的な匂いのするネーミングは、それを纏った者により豊穣な空想へと誘い込む。悩んだ挙げ句決めたのは、『ラ・ミール』という王女ミュラの伝説をモチーフにした香水。匂いは嗅いでいるうちに背筋を正されるような神聖さがあるが、また同時に「甘美な病院」というイメージも浮かぶ。ギリシャ神話ではミルラの樹液は、王女ミュラの涙とされているようだ。以下、引用。

"ミュラは絶世の美女であったことから、ミュラの母親は娘の美しいことを自慢し「私の娘は、美の女神アフロディデよりも美しい」と神をも畏れず言いふらしていました。そのことがアフロディデの耳に入り、辱めを受けたと思った女神はミュラに『自分の父親を恋い焦がれる』呪をかけてしまいます。

やがてミュラはキプロスも王である実の父親に、恋心をよせ、自分の想いを抑えることが出来ずに、許されない恋に走ります。顔を隠し、素性を偽り、父親である王の寝所に通うようになります。そして、通い始めて12日目に、王は自分を慕って来る女性の顔を見たくなり、その顔を燭台の灯りで照らし、娘であることを知ってしまいました。

王は驚き、悲しみながらも、その行為を恥じ、娘を殺そうとしましたが、まわりに押し止められ、娘を国外へ追い払うことにしました。

国外追放されて、やっと正気を取り戻したミュラは、何ヶ月もの間、砂漠を放浪し、アラビアのシバというところに、たどり着きますが、力尽きてしまい神々に許しを請い、甘んじて罰を受けようとしました。

そこで神々は、ミュラをミルラの木に変えることにしました。ミュラはミルラの木に変えられたのですが、この時すでにミュラは子供を身ごもっていて、やがて、木の皮が裂け「アドニス」が生まれたということです。このアドニスは『美の女神に愛された美少年アドニス』というのも、なんとも皮肉な話ですね。そして、ミルラに姿を変えられてからもミュラは、芳香のする涙を流し続けていると言い伝えられています。"


新約聖書ではミルラはキリスト生誕の時に、没薬として乳香と黄金と共に献上された3つの捧げものの一つとなっている。それは当時、強い殺菌力を持つ没薬は黄金と同じくらい貴重だったからで、「偉大な医者」の象徴ともされていたそうだ。


五日目

早朝から鶏が鳴く様に教会の気違いじみた鐘の連打で起きる。市内にあるフラゴナールの香水博物館に行く。二日目に行った博物館とは別館になっているが、博物館というには貧相でこじんまりとしている。時間もあったので、30分程散歩しようと好き勝手に歩いたら市街地から可成り離れたところまで行ってしまい、結局2時間近くかけて、昨日の古本屋へ到着した。再度、ひたすら本を手に取って発掘作業。三時間でめぼしいものを40冊ピックアップ、さらに選別に選別を重ねて15冊を買った。昨日からずっと気を使ってくれたおじさんに88ユーロを80ユーロ(8000円)にまけてもらう。夜行バスでロンドンまで帰ったはずなのだけど、眠っていたのかほとんど記憶がない。

Saturday 14 April 2012

パリ 三日目 〜Jean-Pierre Alaux、薔薇刑、空山基〜

日の出を待たずして暁起し、蚤の市に向かった。パリには三大蚤の市が北(クリニャンクール)、東(モントルイユ)、南(ヴァンヴ)にそれぞれあって、その中でクリニャンクールは登録されている店舗だけでも3000を超すパリ最大のアンティークマーケットである。全体で見ると広いが区画ごとにある程度ジャンル分けされているので回りやすい。最初に行ったブロックにはジョージアン、ヴィクトリアンの調度品や東洋の骨董品等、目が眩むほどの絢爛豪華なものを扱う店が軒を連ねていたが、中にはただならぬ覇気を発している店もあって決して入りやすい感じではなかった。アールデコとアールヌーボーの量と質は博物館と比べても全く遜色なく、 さすが本場と言ったところ。


他の区画に移動してみると、ワニの剥製、ヴィンテージの人形、ドレス、昆虫の標本などありとあらゆるジャンルの物が売られている。好みの物が多くて目移りして目眩がする。しかし、財布の紐が今年一番弛んだところで気がついた。現金がない。カードで何とかなるだろうと安易な考えでいたが、思いのほか現金オンリーの店が多く欲しいものとの苦渋の決別を繰り返すしかなかった。今書いて、再起してきた残念を払うべく買いそびれた物を書いてみたい。一つ目は1920年代のフランス製の黄緑のグラス。店のオーナー曰く現在は使用が禁止されている色材と製法で作られている珍しいものだとかでアンティークと未来性を兼ね備えたような奇麗な色をしていた。二つ目は内側の底に見開いた目が描かれていたエスプレッソのカップで、目は飲み終わった時に驚かすように描かれたと思うのだが、悪ふざけに走る少年性と悪趣味がたまらなく好きだった。


マーケットには幾つかのアーケードがあって、その一角に本屋が密集していた。本屋は全店カードが使えるので心配無用で商品を見られる。最初に入ったのは古典美術と幻想芸術を多く扱う店で、未知のアーティストの宝庫だった。店長とフランスのアートについて話した際に、「昔は団体が若い無名の作家達を助成して展覧会などのを企画していたが、今はそういう繋がりが無くなってしまい、若い作家にとって難しい時代になった。」と憂いていた。作家同士がサロンで侃々諤々論議をし、大きな運動を形成していった時に比べたら、現在は個々の作家がスタンドプレーしている感じは確かにあると思う(良いか悪いかは別にして)。フランスに来る前から狙っていたFeonor Finiと迷ったが、この日知ったJean-Pierre Alauxという画家の画集を買った。素晴らしい炯眼の持ち主である店長は、彼女の友達で画家でもあるMichel Henricotなる人物を教えてくれた。家に帰ってググってみると、なんとも僕好みの画家ではないか。というか、軽い既視感すらあったが、どこかで観たけか。


二軒目に入った店は壁一面に敷き詰められた本が落ちて来そうで緊張感を維持しなければならなかったが、店長は気さくで饒舌、奥さんは日本人でロンドンとフランスを拠点に日本のカルチャーを紹介していて、三月には日本の奥さんの両親に結婚報告に行くから今から緊張している、なんてことを言っていた。写真を見せてもらったが、品の良さそうな美人の方で、店長も自慢げだった。奥さんとの会話は全て英語だそうで、フランス人と結婚したい願望のある僕にとってこれ以上にない励ましになった。本は金属とエロスを長年描き続けている日本人画家の空山基さんの肉厚な作品集を買った。


次に入ったのは偏った趣味の高級そうな本が陳列されているこぢんまりとした店で、レジに座っているおばさんも愛想がなくて何かを黙々と読んでいる。ジャンルもごちゃ混ぜの本を一つひとつ手に取って眺めていると、どんなものを探しているのかと話しかけられた。趣向を伝えると引っ切りなしに本を持って来てくれて、話してみると趣味が合うところが多く意気投合した。本の値が張るのも、彼女の初版、原版に対するこだわり故で店の半分を占めている自身のコレクションは例外なく初版、原版だという。そして、店に入った時から見えてはいたが言い出せなかった、細江英公が三島由紀夫を撮った伝説の写真集「薔薇刑」を見せて欲しいと言ったら、あれは自分の宝だからダメだと断られた。が、話しているうちに気が変わったのか、特別に見せてくれることに。初版1500部限定で三島、細江両者の署名入りだ。「薔薇刑」何度か再販されてはいるが、写真の再現性に長けたクラヴィア印刷が使われているのは初版だけで、モノクロの明暗が強く特に深淵の黒が際立って見える。それに加えて写真が大判なので、ページをめくる度現れる三島の鋭い眼差し、迫力に圧倒された。


ホステルに帰って、相部屋になったメキシコの大学生と少し談笑。3人のうちの一人が財布をすられたというので、やっぱりパリは治安悪いよねーと賛同を得ようとしたら、別の一人に「フランスは業が巧妙で気づかないけど、メキシコでは頭に銃突きつけられて脅されるから違った治安の悪さだよねー」と言われた。どう考えても銃突きつけられるほうが嫌だけど、そんな環境で生まれ育った青年がここパリでスリに財布を抜かれた事実があるので妙に説得力も持っていた。彼らが別の友達からもらったという強い酒にチリソースを混ぜたものを飲む。不味い。

Friday 2 March 2012

パリ 一日目&二日目 〜高級コーラ、盗難ワープ、〜

一日目

2011年の暮れ、イギリス南西部の旅から帰って、間髪入れず、31日からフランスに行って来た。といってもドーバー海峡の対岸なので異国に行くというよりは本州から北海道に行く感覚に近い。バスに乗ってそれが更にフェリーに乗っていくのだけれど、フランス経験の有る友達が行っていた、乗船中はフェリーのデッキに出られるということはできずに、なおかつバスからも降りられず、軟禁状態だった。それでも夢現だったのか、体感的にはドーバー海峡を30分程で横断したのでそれほど苦ではなかった。WARP。それで、呆気なくフランスに着いたのだけれど、これは個人的一大事であった。大陸童貞を喪失したのだ。今まで、日本、イギリス、アイスランドと生まれて、留学して、旅行したのは全て島国で少なからず対大陸を意識していたので、少し切ない気がしないでもない。


友達のホテルに荷物を置いて、レストランに入る。値段が日本の約二倍で若干怯んだが、もう引き返せないので注文。さすがに料理は絶品で、普段食べている不格好で太いポテトとは正反対のスタイリッシュでスキニーなフレンチポテトにも満足。友達が頼んだレモン入りのフレンチビールのさわやかさはレアで注文したにも関わらず完全なウェルダンで出てきた肉の怨恨を奇麗さっぱり晴らすほどだった。店を出て新年のカウントダウンをどこで見ようかとセーヌ川付近を彷徨ったあげく、12時までに時間が有り余っていたので適当に入れそうな場所を探してカフェに入った。パリ中心地のカフェときてはやはり田舎のマックとは事情が違って、ワンオーダーが強制なのでなにか(マックシェーキ的な)安いものを注文しようとしたところ、1000円のコーラを筆頭に不当価格のオンパレードであったので、さすがに驚いた。これがキャフェというやつか。フランスの鋭い洗礼を受けつつ、何故か安いクレープを注文してカウントダウンまで店に居座った。

『Trois!』、『Deux!』、『Un!』みたいなカウントダウンも突拍子もなく新年を迎えた。エッフェル塔が激しく発光するのも、新年だけかと思いきや毎時間光っていてもう既視だし、花火も計算された幾何学的できらびやかなロンドンのものとはほど遠く、まとまった発射は皆無で、個人が少しいい花火を買って打ち上げた程度のものが視界の端っこに点在するくらいで期待外れ。フランス経済崩壊の兆候なのか。エッフェル塔の近くにある公園から観ていたのだけど、人は溢れ返り夏フェスなさがらのモッシュも多発、中国人女性vs中東男の見応えあるタイマンも勃発していた。疲弊しきったので新年で全線無料になっていたメトロに乗ってホテルに帰る。


二日目

友達のホテルから予約していた格安ホテル3Ducks Hotelに移る。そして、その時個人歴史は動いた。カメラが無い。フランスの前に行ったイギリス南西部の旅の写真をパソコンにアップしてなかったのも精神破壊には十分な打撃を与えたが、なにより、2011年に起こったことを2012年にまで持ち越してしまったのが気にくわない。すぐに気づかなかった自分に非があるが。それにしても、パリのスリには脱帽した。来る前から、パリ到着一時間で踊りながら近づいて来た男に財布を取られたJ氏や、地下鉄で華麗に買ったばかりのiPhone4sを持っていかれたS氏の話を聞いていたので、常時の3倍くらいにはATフィールドを張って警戒していたのだ。それにも関わらず、スリはATフィールドを中和し、僕のカバンを巧みに開けて、分厚いタオルを掴んでもなお諦めずに捜索を続け、中心に包まれたカメラをきっと繊細であろうその手中に収めたのである。そして、それがフレンチ伝統の気品なのであろうか、開けたカバンを自らしっかりと閉め直して立ち去った。研ぎすまされた嗅覚、巧妙で緻密な技術、不屈の精神、徹底されたマナー、これらを兼ね備えたパリのスリには一人スタンディングオベーション(拍手喝采)である。


友達と昼ご飯を食べにイタリアンに入る。チャイを頼んだら、市販されているリプトンのパックが出てきたのは大目に見て、ワインが強いチーズフォンデュは絶品だった。昼過ぎにはフラゴナールがやっている香水博物館に行った。紀元前4500年のエジプトから、ギリシャを通って、香水がフランスで隆盛した18世紀までの香水容器が展示されている。もとをたどれば、香水は宗教的儀式において重要な役割を担っていたらしい。そういえば、キリスト教関連のそんなような話を読んだ覚えがある。太陽王、ルイ14世が建てたヴェルサイユ宮殿に常設のトイレが無かったのが香水の発達に一役買ったのは有名なところだが、この頃香水は薬としても使用されていて、コルセットできつく締め付けた為に気を失った貴婦人達に着付け薬と重宝していたという。原料からエッセンスを抽出する方法も3種類(温吸収法、冷水法、蒸溜法)あってそれぞれに必要な容器や道具も展示されている。見て回っているうちに、映画『パフューム〜ある人殺しの物語〜』を思い出した。この博物館には植物からエッセンスを抽出しているという説明しかなかったが、実際には哺乳類からエッセンスを取り出したりもしていたのだろうか。


ぶらぶら歩いていたら、巨大な神殿の前にたどり着いた。サント・マリア・マドレーヌという、いかにも失われた時を求めたくなる名前の教会はブルボン朝末期に建設し始め、フランス革命で中断、そしてナポレオンが政権を握ってから再開し、革命の象徴として完成させるつもりが、完成したのはナポレオンはすでに失脚した後だったいう、なんとも一貫性に欠けた建物である。教会に入ると丁度、パイプオルガンの演奏が始まった。正面奥の壁には最後の審判の彫刻があって曲とその物語が進行するにつれて登場人物が順々にライトアップされていく。それにしても新年から大勢の人が来ている、初詣みたいなものか。


マリー・アントワネットの首が落とされたコンコルド広場から少し歩いたところにある、長過ぎるクリスマスマーケットでチュロスを買う。日本の香具師にもならって欲しいほどに椀飯振舞で、アツアツのチュロスは四人で食べても余るほど。「パンが無ければ菓子を食べればいい」というのも二世紀を経た現在では十分妥当性がある言葉になった。友達のホテルに集まり、スーパーで買ったワイン、スペイン土産の生ハム、イギリスからの年越しそば(インスタント)で夕食を済ます。フランスのスーパーではなにを買っても美味しかった。イギリスのスーパーがフランス化することを切に願う。


Monday 13 February 2012

セルジュ・ルタンス 〜無機質なユートピア〜

『ルタンスが器用するモデル達は、顔立ちは固より、性格から思考まで吟味される。また、ルタンスの初期の頃の作品に登場するモデル達は、撮影の一週間前から花で溢れた部屋で花に囲まれて過ごし、薔薇の花びらのスープや、薔薇の花びらのサラダを食べてルタンスの世界を体現する為の準備をしたという。』と、寺山修司からウォーキングを学び、山本寛斎、三宅一世、イヴ・サン・ローラン等、世界のトップデザイナーのもとでモデルを務めた山口小夜子は語っている。


セルジュ・ルタンスの作品は厭世観で満ち満ちている。そこには現実世界から逃避して美の王国に閉じこもろうとしたユイスマンスの小説『さかしま』に登場するデ・ゼッサントのような強固な意志があるのではないか。その貝のように強い信念が無ければ、ここまで結晶度の高い美を突き詰めるのは不可能だろう。そこでは全てが静止していて、息をしてはいけないような気さえしてくる。


ルタンスは生命のないものや機械的なものを好むネクロフィラスな人間であるように思える。不自然なポーズ、ユリのように白い肌、交換不可能なまでに選び抜かれている配色は生身の人間を解体し、マネキンや死体を観るものに喚起させる。またルタンスが撮影前、モデル達に薔薇に囲まれた生活をさせたのは、心身をもって日常から隔離させ、彼女達をできる限り無機に近づける為だったのだろう。もしかすると、ルタンスが目指したものは人間の剥製みたいなものだったのかもしれない。それは女性的な表象ではなく、熱を持たない、乾いたフェティシズムである。彼女らは絶対的な美として時間の不可逆性に抵抗し、ある場所であるがままに未来永劫存在する。


日本語でスタンスの経歴が参照できるものがなかったのでWikiや海外の記事を参考に和訳しました。

セルジュ・ルタンスは1942年3月14日にフランスのリールに産まれの写真家、映画監督、ヘアスタイリスト、ファッションデザイナーである。


80年代に日本の資生堂のコマーシャルで写真撮影とアートディレクションで一躍有名になる。

14歳で地元のヘアサロンに見習いとして働き始め、立体美の感性、理解を深めてゆく。同時期に友達をモデルに見立てメイクを施し写真を撮っていた。

1962年にヴォーグに雇われてパリに上京し、メイク、ヘア、ジュエリーなど多岐に渡って活動しリチャード・アヴェドン、ボブ・リチャードソン、弟に「俺たちに明日はない」の監督アーサー・ペンを持つアーヴィング・ペンと制作を共にし、1967年にはクリスチャン・ディオールにメイクアップラインを任される。

1973年に制作した写真集(クロード・モネ、ジョルジュ・スーラ、アメデオ・モディリアーニ、パブロ・ピカソに着想を得た)はニューヨークの美術館で展示され、70年代中頃には映画にも着手し二本のショートフィルム「Les Stars(1974)」、「Suaire(1976)」を続けてカンヌ国際映画祭へ送り込む。

1980年、ルタンスは資生堂に移り、広告、フィルム、メイク、パッケージングでその才能を発揮し、カンヌ国際広告際で金獅子賞(Lions d'Or)を二度受賞。1982年、資生堂はルタンスに香水の制作を依頼して今では伝説と化したノンブルノアール(NOMBRE NOIR)(日本では原料(特に天然動物性香料)の調達難航のため製造が中止された。)を作り上げる。

1992年には「ブティックよりもより洗練された香水店」をコンセプトにレ・サロン・デュ・パレロワイヤル・シセイドー(Les Salons du Palais Royal Shiseido)をデザインし、パリに店を構え、それ以後はSerge Lutens名義で香水を扱い始める。

近年は2005年にカラーコスメをSerge Lutens名義で発売するが、香水に専念するためにメイクアップアーティストとしての活動はしていない。2007年に香水、コスメ、写真、映像制作への貢献を賞し、芸術文化勲章コマンドールを受賞。

現在はモロッコの美しい都市マラケッシュに住んでいる。