『ルタンスが器用するモデル達は、顔立ちは固より、性格から思考まで吟味される。また、ルタンスの初期の頃の作品に登場するモデル達は、撮影の一週間前から花で溢れた部屋で花に囲まれて過ごし、薔薇の花びらのスープや、薔薇の花びらのサラダを食べてルタンスの世界を体現する為の準備をしたという。』と、寺山修司からウォーキングを学び、山本寛斎、三宅一世、イヴ・サン・ローラン等、世界のトップデザイナーのもとでモデルを務めた山口小夜子は語っている。
セルジュ・ルタンスの作品は厭世観で満ち満ちている。そこには現実世界から逃避して美の王国に閉じこもろうとしたユイスマンスの小説『さかしま』に登場するデ・ゼッサントのような強固な意志があるのではないか。その貝のように強い信念が無ければ、ここまで結晶度の高い美を突き詰めるのは不可能だろう。そこでは全てが静止していて、息をしてはいけないような気さえしてくる。
ルタンスは生命のないものや機械的なものを好むネクロフィラスな人間であるように思える。不自然なポーズ、ユリのように白い肌、交換不可能なまでに選び抜かれている配色は生身の人間を解体し、マネキンや死体を観るものに喚起させる。またルタンスが撮影前、モデル達に薔薇に囲まれた生活をさせたのは、心身をもって日常から隔離させ、彼女達をできる限り無機に近づける為だったのだろう。もしかすると、ルタンスが目指したものは人間の剥製みたいなものだったのかもしれない。それは女性的な表象ではなく、熱を持たない、乾いたフェティシズムである。彼女らは絶対的な美として時間の不可逆性に抵抗し、ある場所であるがままに未来永劫存在する。
日本語でスタンスの経歴が参照できるものがなかったのでWikiや海外の記事を参考に和訳しました。
セルジュ・ルタンスは1942年3月14日にフランスのリールに産まれの写真家、映画監督、ヘアスタイリスト、ファッションデザイナーである。
80年代に日本の資生堂のコマーシャルで写真撮影とアートディレクションで一躍有名になる。
14歳で地元のヘアサロンに見習いとして働き始め、立体美の感性、理解を深めてゆく。同時期に友達をモデルに見立てメイクを施し写真を撮っていた。
1962年にヴォーグに雇われてパリに上京し、メイク、ヘア、ジュエリーなど多岐に渡って活動しリチャード・アヴェドン、ボブ・リチャードソン、弟に「俺たちに明日はない」の監督アーサー・ペンを持つアーヴィング・ペンと制作を共にし、1967年にはクリスチャン・ディオールにメイクアップラインを任される。
1973年に制作した写真集(クロード・モネ、ジョルジュ・スーラ、アメデオ・モディリアーニ、パブロ・ピカソに着想を得た)はニューヨークの美術館で展示され、70年代中頃には映画にも着手し二本のショートフィルム「Les Stars(1974)」、「Suaire(1976)」を続けてカンヌ国際映画祭へ送り込む。
1980年、ルタンスは資生堂に移り、広告、フィルム、メイク、パッケージングでその才能を発揮し、カンヌ国際広告際で金獅子賞(Lions d'Or)を二度受賞。1982年、資生堂はルタンスに香水の制作を依頼して今では伝説と化したノンブルノアール(NOMBRE NOIR)(日本では原料(特に天然動物性香料)の調達難航のため製造が中止された。)を作り上げる。
1992年には「ブティックよりもより洗練された香水店」をコンセプトにレ・サロン・デュ・パレロワイヤル・シセイドー(Les Salons du Palais Royal Shiseido)をデザインし、パリに店を構え、それ以後はSerge Lutens名義で香水を扱い始める。
近年は2005年にカラーコスメをSerge Lutens名義で発売するが、香水に専念するためにメイクアップアーティストとしての活動はしていない。2007年に香水、コスメ、写真、映像制作への貢献を賞し、芸術文化勲章コマンドールを受賞。
現在はモロッコの美しい都市マラケッシュに住んでいる。
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